京絞り -際と余白の妙技-
絞り染め「京絞り寺田」

友好商社 五同産業

2010. 7. 26

女  傑 

 

 西澤摩耶子 ー中国委託加工の始まり

 

 

 


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七月上旬,GALLERY ARTISLONGの企画、「テレコ(個)」展会場に日本の「本疋田絞・一目絞」にとって多大な功績を残した西澤摩耶子会長が立ち寄って下さり、10年ぶりに再会した。

 

この機会に時代系列が前後するが1960年代~70年代の絞り業界の背景を一部書いてみる。

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戦後、中国に於いてまず手始めは大手商社を媒介として60年代末より江蘇省に、京都の絞り職人が中心となり技術指導が開始される。 南京・上海・広東(特に南東は伝統的藍染地域)等の稲作農村地帯に絞括下請け地域が形成されるが、70年代半ばからの対中国委託加工交渉において、当時の中国文化革命下の権力の中枢、いわいる「四人組」時代の対外政策は、「加工貿易という形態は、外国の植民地経済的発想で屈辱的貿易形態」と否定的扱いとされる。 尚且つ、政治的関係を重視する日本「友好商社」の非協力によっても不成功に終わる。  

 

この間、北ベトナム( ハノイ )へ委託加工が一時期移るがそれは後に書くとして、1976年に江青等四人組のクーデター未遂による逮捕で、急速に中国政府は「改革・解放」路線を採用。 1977年秋頃からの絞業者らの再調査も行われ、生産可能と判断されて韓国から中国への加工地転換が一気に進む。

 

1974年頃から水面下では京都絞商により委託加工は始まっていたが、完全開放後は南通に日本の業者の多くが集結。  そんな中、根性が歪みよじれいた寺田庄造(狂気の人)父は、上海金山県に単独工房創りを進める。 当時はたとえ三菱・三井・住友と大手商社とはいえ中国各公司との交渉事は至難の業、一筋縄ではいかず隣の省へ入るにも通行許可書が必要だった時期、友好商社五同産業・西澤摩耶子会長の協力なしでは「 結い子の養成工房 」は成しえなかった荒業だったと思う。

 

 

中国総公司幹部らに「日本に三女傑有り」と言わしめた一人で、日本の女性で天安門で周恩来・毛沢東両氏の隣に立った女性は多分彼女一人だろう。 日本共産党の創始者の一人・戦後初の共産党書記長・重要危険人物として戦後マッカーサーに北京に追放された偉人徳田球一氏を父に持ち、日本からの独立国家を真剣に創ろうと企てた同胞革命家西澤隆二氏の妻( 司馬遼太郎の「ひとびとの足音」に出てくる )である。

 


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日本と中国の挟間で社会の激浪を日常的に受け止めて来た女性西澤会長は日中共に信頼も厚く大きく優しい。 蘇州で初めて着物に刺繍を施し、本疋田鹿の子絞りにも父に共鳴し情熱を注いで頂いた。「井戸を掘った人・日中の架け橋」として現在でも中国の人々に尊敬・感謝され業績が語り継がれている。

 

一日4寸しか絞り進まない16万粒におよぶ疋田絞り、一目絞りは残念ながら日本国内では満足な品はすでに出来ない。「お前らが中国に委託しなければ日本に京都に残った!」と言う意見の人も確かにいるが、如何なものか。

 

20代、毎月上海金山県、蘇州呉県、南京、南通へ技術指導・検品・叱吒激励に奔走し、私でも足が着かない(坂が無いため)自転車で五同産業のスタッフ等と町を走り回り屋台の湯豆腐を食べ歩いてた頃を思い出した。

会長は何時も微笑んでおられ、彼女の口から苦労話は聞いた事が無い(と言うか苦労話に聞こえない)、当時の話を機会を作って是非色々尋ねてみたい。