明治40年東京府主催で「東京勧業博覧会総評」において出品された3319点の染織関係の内、 絞り類119点が当時の有識者と云われる方々から酷された評価である。「進歩の跡をみとめず」進歩とは如何なるものか。「機械を用いて染色及び仕上げをなしたるもの」らしいが、その実、維新後の日本は工業政策を讃えつつも手仕事である繊維産業の内需拡大と絹貿易に支えられた経済基盤を造って行くのだが。
この影響か特許局設置以来、 明治40年以降に絞りの道具や技法が数多く生まれ、どれも~機とか~機械、もしくは~装置と登録された。今だに機械絞りという言葉は多くの誤解を含んで業界内でも使われているのには呆れるが、技法・道具は多彩となったが手仕事という概念と価値感がねじ曲げらて行く瞬間でもあったと思う。
更に本来家々に粒の特長を持ち優れた鹿ノ子を括れる事が嫁入りの好条件であった結い子(指先のみで括る絞り子)の精神世界に於いては工業化の渦の中、労働集約型産業として東アジアに理念なく合理性のみ伝えられて行く。