維新明治の矛盾
明治以降から現在まで連綿と続く東アジアでの絞括加工は是か非か。国内事情と海外政策の政治の中に組み込まれていく絞り産業と稼業の矛盾と未来を考える。
昭和十年( 1935 ) 朝鮮絞リ宣傳会ヲ催シタ際、ソノ為ニ朝鮮ヨリ来タ現地人職工三名、 会終了帰国ノ節、当方家族ト記念ニ。(店ニ階座敷ニテ) と祖父が記している。
1910年(明治43年)日韓併合で朝鮮総督府によって、朝鮮農民への絞り加工奨励政策が展開された。背景には日本政府の「反工業化政策」によって農村部余剰人員を吸収する産業成長をめざす為とあるが、ようは日本の安心安全な食糧基地化をめざしたのであろう。
また、絞括という特異性は問屋制家内工業から工場制への移行は進展せず、家内手工業主制のもとで少年女子の家計補助的存在で成立発展して行く。日本国内加工賃が1円70銭程度であったのに対し朝鮮の加工賃は7銭と資料に残る。
明治期の絞りの主力商品は、「 手 柄 てがら」 と呼ばれる髪飾りであったが、関東大震災(1923)を契機に日本髪が衰退、平成の現代どころではない壮烈な生き残りバトルが誘発。 一つ頭を抜けだしたのが、絞商の老舗上田善(株)。日韓併合後に求職活動に愛知県へ来た朝鮮人等に絞り技術を習得させて帰国後、家内工業的副業の失業対策として絞り加工工程を移植、農村部若年女性労働力を主体とした絞生産が京都鹿ノ子絞り業者の指導のもと始まる。
龍村晋・寺田豊二人展
場所 旧古河鉱業若松ビル
北九州し若松く本町1-11-18
日時 平成22年4月24(土)~26(月)
10:00~18:00
故龍村晋氏との出会いはまだ仕事に着いて間もない頃。古代裂の研究と復元などで日本の染織業界に多大な業績を残した龍村平蔵氏の三男で明治41年生まれ、当時80歳前後だったと思う。破天荒で妥協を許さず、怒ると殴る。 私は殴り返されると思ったのか幸い被害には合わなかったが、私の父が60歳だと聞くと、まだ若造やな、とバッサリ。 20代東京出張で多少でも時間があると晋氏のもとでよく学習させて頂いた。
「 寸断の錦なげうつしぐれかな 」 の句が示すが如く、納得いかない作品は敢然と切り捨てられ、回りの誰かが被害を蒙っていた。
「 千年生きた文様はこれからも千年命がある 」 と、語るはさすが「 伝 匠 名 錦 」龍村晋。しかしある日,「 十年間 織り続けたら オレの柄 」 と言い放った晋氏が私は好きだった。
主催 しものむら
Tel (093)761ー0285
北九州し若松区本町3-6-30
鉄腕ポパイ 品川 吉夫
財団法人 祇園祭船鉾保存会 最高顧問
盛徳寿楽会会長
京鹿ノ子絞手湯のし 伝統工芸士
大正15年11月30日生
85歳寅男
幼い頃は安重(打ち刃物屋)で丁稚奉公し現在の「手湯のし品川」を継ぐ。85歳にして現役、握力は20代、私が創るほとんどの作品に大将が仕上げの精気を込めてくれる。
清涼な京の地下水が蒸気となって大将と作品を包み込む
視力も衰え足腰もままならぬ体勢で、幅9寸8分で・・・とお願いすると、物指しも使わず手加減で見事にピッタリ寸法を合わす、手技と言うより神技。
船鉾の守護人として理事長も25年間務め、七月三日京の風物史「祇園祭船鉾神面改め」で毎年 紙面表紙を飾り、梅雨入りを知らせてくれる顔となった。今尚、鉄棒持って早朝から深夜まで神功皇后を始め神々が鎮座する鉾蔵の見回りは怠らない。私の祖父の仕事振りを知り語ってくれる最後の翁でもある。