京鹿の子絞りの手わざ・2 冊子完成
2012. 5. 30
京鹿の子絞振興協同組合
技術保存委員会
手 わ ざ ・ 2
ー 染 め る ー
二冊目はおもに浸染の手順が中心、一色染め・ぼかし染め・桶絞染め・箱ローケ
ツ染め・彩色タタキ・辻が花染め等々。
その他、昭和10年前後の京都近郊の結い子、市内の漂白場・染場・下絵屋・湯
のし・解き風景の珍しい記録写真、絞り屋にとって明治以降産業化の要の商品と
なった「手柄」の写真などを集録した貴重な資料に仕上がった。
京都新聞 2012年(平成24年)6月28日 (木曜日)朝刊
読売新聞 2012年(平成24年)8月9日 (木曜日)朝刊
お問い合わせ先
075-255-0469
京鹿の子絞振興協同組合・担当井本
京都市中京区西洞院通四条上る蟷螂山町481・京染会館内
京都芸術センター企画
ー絞り職人から学ぶ京のわざー
http://www.kac.or.jp/
バッタもんのバッタもんー過剰な権利意識
2011. 12. 30
美術家 岡本光博
「ユーモアと自由 」
バッタもんのバッタもん 展
期間 2012年 4月10日(火)~22日(日)
場所 Gallery ARTISLONG
京都市中京区三条堀川通西入ル
075-841-0561
岡本光博 http://bbpweb.web.fc2.com/
岡本氏がブランドバックを解体して作成した作品「バッタもん」は、2010年の神戸ファッション美術館の企画展において、ルイ・ビトン社のクレームにより、会期中に撤去され是非について新聞等々でも関西で話題になった。
彼曰く、我々の身の回りは、様々な著作物や何者かが登録した権利物で溢れ(肖像権、知的財産・・・)、権利意識の過剰な高まりは、文化面へのマイナスに止まらず、社会にひずみを生じさせているように感じる。そのひずみを指摘し、気付かせてくれるのもまたアートの役割でもある。
「バッタもんのバッタもん」プロジェクトでは、一匹でも多くの「バッタ」の仲間を生み出すことを目標に「バッタ」の型紙を公開し参加者の誰もが自由に好きな材料や生地(どれほど過剰な権利意識のある意匠やロゴがあろうとも・・・)を使用して生まれた仲間たちをウエブで紹介してきた。
バッタの大量発生は”蝗害”いう災害でもあるのだが、「バッタもん」が大集合する本展は「ユーモアと自由」へと飛躍するための力強いメッセージでもある。
伝統工芸、染織の世界では明治時代に染織が幕府や藩の枠を超え産業化していく時代、特許庁設立と共に多くの個人の特許取得者が生まれた。 絞りでも京都では、上田善助氏(現在の㈱上田善)が手柄(日本髪の髪飾り)が使っている間に生地が伸びるところから中に金糸等の刺繍を入れて伸びを防ぎ商品化し実用新案を取得している。
驚くべきは大正時代名古屋有松周辺の職人が特許を取った道具の数々、現代も多く使われる機械と称される道具達は今も現役で世界に向けて広がっている。
当時の職人・商人のアイデアはそれまでに誰も考えなかった特許取得に値する画期的な工夫と熟練から生まれた創造的な発明だった。 しかし最近我々の身近でも全てとは言わないが、多少の手順や表現方法の違いでやれ特許だ、実用新案だと申請し権利を主張するバカな詭弁者がいる。
職方が減少しているこの時代、特に可能性が未知な若い 方々は先人の培った手わざや道具の創意工夫を謙虚に学び身につけていって欲しい。
特許庁など頼らなくとも何よりそれがかけがえのない神技に必ず進化する。
以前出張先の金沢の小料理屋で、魚料理も美味かったが、店のオヤジが手作りで改良したと言う機械で絞り出した生ビールが格別美味かった。
思わずその機械の特許は取ったかと言う我々の問いにオヤジは「特許を取ったら広まらない」とあっさり答えた。完敗!
今回の「バッタもんのバッタもん」展には私を始め刺繍作家・森 康次氏、友禅作家の匠・木戸源生氏その他多くの染織家が参加している。
岡本氏には大変失礼な話なのだが、私が声をかけた中には「ユーモアと自由」という、響きのみに触覚が反応して参加されている方も若干・・・。それも又良しと奇作なバッタ君に免じて見逃して頂きたい。
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風俗画報・江戸の流行物ー「 手柄 」
2011. 9. 27
祇園・安井金比羅宮 櫛 祭 り
矢飼 満実子
昭和36年に安井金比羅宮境内に「久志塚」なるものを建立、京都美容文化クラブが発足され、使い古した櫛や折れた櫛などに感謝の心を込めて櫛供養が始まった。
今回も境内で櫛供養の式典、皆地髪で結い上げた伝統の髪型及び風俗衣装の解説後に、新橋通りから祇園界隈へと百数十人が練り歩く。
古墳時代の、みずら・古墳島田から大正時代の束髪・耳かくし、現代舞妓の割れしのぶ・おふくまで45種類の結髪の技に髪結い職人の奥深い美意識に改めて感嘆させられた。
手 柄 (てがら) のこと
明治中期の流行本、「風俗画報」明治29年5月号には「手柄 変わりたる品にて
は疋田絞と云ひて手に取りてみれば 普通の絞りなれど、かけてみれば、その絞
り少しひろかりて疋田なるが分かると云う洒落者なり・・・・・・・・・・色合いも紅・肉・
藤・紫紺・お納戸など年頃しだい派手なるも地味なるもあり価格は一掛僅か二三
十銭」と記している。
この頃新聞代が一と月三五~四十銭、今日の週刊誌大が一部十銭だから、この
手柄の代価はそれほど安くない。(京鹿の子・美と伝承参照)
以前にも書いたが、関東大震災以降、日本髪を結う女性が激減、衰退。
むろんそれに伴い手柄の売れ行きも先細りとなって行くのだが、反面 京都で絹織物で作られた総鹿の子の着物や帯は明治までの公家・武家の階級層衣装から、一般庶民が手に入れやすい環境・時代に変化していく。
行列に紛れて ・ ・ ・
ほんまもんの祇園甲部の芸妓はんどす 、 十月一日からの温習会のおさらい稽古ですか。
帯のユガミと微妙な着物のズレが絶妙な佇まい。
で、冒頭・右の写真の方は絞り技術本「京鹿鹿の子絞りの手わざ1」作成で大変お世話になり、現在 門跡尼寺・宝鏡寺で執事をしている 矢飼満実子姫。
着物は組織が練貫の紗織で、菊・牡丹唐草に鳳凰文様の小袖。江戸後期の女官衣装、葵髱・吹き輪の結髪で「櫛まつり」にご登場。
門跡の姫と云う事情もあって、風俗研究家の上田定緒氏の特別な計らいで小袖を準備されたらしく、素材・色柄と高貴にて繊細、素晴らしかった。
京鹿の子絞りの手わざ 1 冊子完成!!!
2011. 8. 28
完成・出版 京鹿の子絞りの手わざ・1
くくる・しめる・とめる
2011年8月、京鹿の子絞振興協同組合理事会に於いて、この冊子が組合員の
みならず技術保存・後継者育成を目的に、広く一般にも販売される事となった。
完成に至るまで、組合員は勿論、組合員以外の職方さんの惜しみない協力はありがたかった。
又、制作スタッフを引き受けて頂いたアートディレクション志村和信氏、デザイン小林和子氏には多大な尽力を頂戴し、組合事業と云う事で金銭的、時間的にも大変迷惑をかけた。
申し訳ありませんでした、感謝しております。
カメラ平田尚加氏、高井海氏、土壇場でイラストを描いてくれた中西信乃、蜜谷香織氏も助かりました、ありがとうございました。
そして誰よりも半年間一番頭を悩ませたのは、構成・編集・執筆全てを一手に引き受け困惑・瞑想・奔走してくれた矢飼満実子女氏。世界文化社の編集者の頃からの付き合いだが、見事に読み手の心理、立場を熟知した編集仕事振りにあらためて感心し、驚愕のファイナルだった。
心意気で引き受けてくれた彼女には言葉で言い尽くせない感謝の気持ちで一杯である。
皆々様本当にご協力ありがとうございました。
第二段冊子は絞りの浸染と彩色について制作致します。
京鹿の子絞振興協同組合ブランド 「 S u i h u 」ー粋 布
2011. 4. 22
京鹿の子絞振興協同組合 S u i h u
新製品開発事業委員会
ブランドの発生
粋 布
K Y O T O
詳しい資料・パンフレットの請求は京鹿の子絞 振興協同組合事務局まで
担当 事務局専務 井本 喜代親
075-255-0469
京鹿の子絞りの源流ー技術保存No.2
2011. 4. 2
京鹿の子絞振興協同組合 京都繊維商工名録
京都絞工業協同組合
技術保存の作業を初めて半年、あれこれ資料を整理・収集してたら1950年に染織新報社が発行した名簿が出てきた。 長い統制時代から終戦後の1950まで混乱の時代を経て、京都の繊維業界で昔日の伝統にいち早く複帰した各社が、その存在を知り合い有機的連絡を密にするため明快な資料を切望した。 京都で初めて製糸業から小売業に至るまで一万社以上を対象に編集されており当時の業界が高度成長に向う意気込みを感じさせる。 資料内の京都絞工業組合員は109社(現在の製造卸部会)で、およそ現在の5倍。
京都の鹿ノ子絞り業者の団結ははやく、明治十八年頃商業初の組合として綵纈組合、工業初の纈絞組合がほぼ同時に設立されている。 またこれとは別系列に江戸末期から髪飾りとして盛んに用いられた手柄の製造者(絞り裂を使用)があり明治41年から京都小間物化粧品卸商同業組合を設立して活動を始めている。
昭和になり15年2月に131社の組合員があったが大戦後は31社に減少、大別して三業種に分けられる。高級呉服取扱業者・兵児帯取扱業者・小物取扱業者。
(京鹿の子・美と伝統 京都絞工業組合ー参照)
平成22年現在、京都絞工業協同組合を統合して京鹿の絞振興協同組合として活動しており、組合員は製造卸部・生産加工部の意匠部門(下絵・絞括) 染織部門(染め分け・浸染) 仕上げ部門(湯のし)約100社(職方も一社とする)で構成されている。
京鹿の子絞りの源流ー技術保存No,1
2011. 4. 1
技術保存の意図 三大要素
くくる・しめる・とめる
弾丸ではない、三代に渡り受け継がれた数百の型彫用ポンチ
2010年6月、絞り技法マニュアル・スタンダード・テキスト、DVD作成を
京鹿子絞組合理事会より依頼され、制作スタッフの人選を急遽行った。 要はまず編集者、さらに意図を瞬間に読み取ってくれる写真家、全体の構成を信頼して任せられるデザイナー、印刷所。 ありがたい事にある意味伝統工芸の歴史に残るテキストという事で素晴らしいスタッフが協力して頂き揃い、早々に船鉾の工房が撮影現場に変った。
「本疋田鹿ノ子・人目絞り・ 針鹿ノ子・針人目絞り・平縫い・折り縫い・巻き縫い・傘巻き・小帽子・中帽子」などなど今年度のテキストに使う数種類の技法の撮影を行った。 改めて絞り技術の複雑さと多様性に、単純に職人を養成しようなどとは言えなく思えなくなった。 しかしここ数年が正確な資料を残す
最後の機会となるだろうし、想像以上に全国に技術を学びたがっている人もいる。 カルチャーレベルではなく、職方、作家の目的の違いはあるにせよ出来るだけ高度かつ解りやすいテキストを創り残したい。
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板締め用板各種
一枚の着物約14mの生地に30~40枚の板を挟む
青 花
昆布でも焼海苔でもない。 年に一度露草の汁を集め和紙に浸ませ
保存し、少しずつ溶かし型を置いて刷毛で生地に刷り込み使う。
心身体力に限界を感じ廃業する職方の多くは、後継者もしくは仲間の職方に秘伝の道具を命を譲る。 大切に・・・・などと言う レベルではない 、神剣である。
女 傑
西澤摩耶子 ー中国委託加工の始まりー
七月上旬,GALLERY ARTISLONGの企画、「テレコ(個)」展会場に日本の「本疋田絞・一目絞」にとって多大な功績を残した西澤摩耶子会長が立ち寄って下さり、10年ぶりに再会した。
この機会に時代系列が前後するが1960年代~70年代の絞り業界の背景を一部書いてみる。
戦後、中国に於いてまず手始めは大手商社を媒介として60年代末より江蘇省に、京都の絞り職人が中心となり技術指導が開始される。 南京・上海・広東(特に南東は伝統的藍染地域)等の稲作農村地帯に絞括下請け地域が形成されるが、70年代半ばからの対中国委託加工交渉において、当時の中国文化革命下の権力の中枢、いわいる「四人組」時代の対外政策は、「加工貿易という形態は、外国の植民地経済的発想で屈辱的貿易形態」と否定的扱いとされる。 尚且つ、政治的関係を重視する日本「友好商社」の非協力によっても不成功に終わる。
この間、北ベトナム( ハノイ )へ委託加工が一時期移るがそれは後に書くとして、1976年に江青等四人組のクーデター未遂による逮捕で、急速に中国政府は「改革・解放」路線を採用。 1977年秋頃からの絞業者らの再調査も行われ、生産可能と判断されて韓国から中国への加工地転換が一気に進む。
1974年頃から水面下では京都絞商により委託加工は始まっていたが、完全開放後は南通に日本の業者の多くが集結。 そんな中、根性が歪みよじれいた寺田庄造(狂気の人)父は、上海金山県に単独工房創りを進める。 当時はたとえ三菱・三井・住友と大手商社とはいえ中国各公司との交渉事は至難の業、一筋縄ではいかず隣の省へ入るにも通行許可書が必要だった時期、友好商社五同産業・西澤摩耶子会長の協力なしでは「 結い子の養成工房 」は成しえなかった荒業だったと思う。
中国総公司幹部らに「日本に三女傑有り」と言わしめた一人で、日本の女性で天安門で周恩来・毛沢東両氏の隣に立った女性は多分彼女一人だろう。 日本共産党の創始者の一人・戦後初の共産党書記長・重要危険人物として戦後マッカーサーに北京に追放された偉人徳田球一氏を父に持ち、日本からの独立国家を真剣に創ろうと企てた同胞革命家西澤隆二氏の妻( 司馬遼太郎の「ひとびとの足音」に出てくる )である。
日本と中国の挟間で社会の激浪を日常的に受け止めて来た女性西澤会長は日中共に信頼も厚く大きく優しい。 蘇州で初めて着物に刺繍を施し、本疋田鹿の子絞りにも父に共鳴し情熱を注いで頂いた。「井戸を掘った人・日中の架け橋」として現在でも中国の人々に尊敬・感謝され業績が語り継がれている。
一日4寸しか絞り進まない16万粒におよぶ疋田絞り、一目絞りは残念ながら日本国内では満足な品はすでに出来ない。「お前らが中国に委託しなければ日本に京都に残った!」と言う意見の人も確かにいるが、如何なものか。
20代、毎月上海金山県、蘇州呉県、南京、南通へ技術指導・検品・叱吒激励に奔走し、私でも足が着かない(坂が無いため)自転車で五同産業のスタッフ等と町を走り回り屋台の湯豆腐を食べ歩いてた頃を思い出した。
会長は何時も微笑んでおられ、彼女の口から苦労話は聞いた事が無い(と言うか苦労話に聞こえない)、当時の話を機会を作って是非色々尋ねてみたい。
絞リ国際分業草創期 No,2
2010. 4. 12
進歩の跡をみとめず
明治40年東京府主催で「東京勧業博覧会総評」において出品された3319点の染織関係の内、 絞り類119点が当時の有識者と云われる方々から酷された評価である。「進歩の跡をみとめず」進歩とは如何なるものか。「機械を用いて染色及び仕上げをなしたるもの」らしいが、その実、維新後の日本は工業政策を讃えつつも手仕事である繊維産業の内需拡大と絹貿易に支えられた経済基盤を造って行くのだが。
この影響か特許局設置以来、 明治40年以降に絞りの道具や技法が数多く生まれ、どれも~機とか~機械、もしくは~装置と登録された。今だに機械絞りという言葉は多くの誤解を含んで業界内でも使われているのには呆れるが、技法・道具は多彩となったが手仕事という概念と価値感がねじ曲げらて行く瞬間でもあったと思う。
更に本来家々に粒の特長を持ち優れた鹿ノ子を括れる事が嫁入りの好条件であった結い子(指先のみで括る絞り子)の精神世界に於いては工業化の渦の中、労働集約型産業として東アジアに理念なく合理性のみ伝えられて行く。